ナザレから何の良いものがでるだろう(ヨハネ1章43-51節)

 ナタナエルは「ナザレ」と聞いただけで、鼻で笑い、答えを出した。我々の福音は、その「ナザレ発」なのだ。「ナザレから何の良いものがでるだろう」という偏見から刺激を頂きながら成長してきたのがキリスト教である。それにしても、クリスチャンが「ナザレから何の良いものがでるだろう」という偏見をナタナエルのようにもっているとしたら残念なことだ。堂々と「私の信じる福音はナザレ発だ」というクリスチャンだと言ってのけるクリスチャンでありたい。クリスチャンの視点、それは偏見の場所、偏見の文化に寄り添うこと。そこに未来のキリスト教があることを確認するべきだ。昨年アフリカのクリスチャン人口が、南米のクリスチャン人口を抜かした。ヨーロッパのクリスチャン人口はその下である。私たち日本人は、宣教師は西洋人だと信じてきた、また尊敬を払ってきた。現にすばらしい宣教師たちが日本に来てくださった。しかし、今日までキリスト教宣教師は西洋人だというイメージで来たのであるが、どうもそうでなくなってきたのはいつ頃だったであろうか。韓国人宣教師が増え、私の牧会する教会にはフィリピンからの宣教師が来てくださっている。私たち日本人クリスチャンが傲慢な視点で世界を見ることから早く脱却せねばならない。私たちがナタナエルのように、鼻で笑って「ナザレ発か」と言いながら、先のものが後になり、後のものが先になる、そんなことになりませんように。

パウロの罪意識は本当だったんだろうなあ

 私はルター派ではないが、パウロの罪意識に対して、あれは本当に本物だったと思う。そこからすべてが始まるというのも本当だと思う。聖潔が見えてこないとしても、罪意識を持っているがゆえに、生きることができたのだと思う。私は高度な罪意識とか、罪意識理解が深まったという言い方をするが、パウロは本当に自分のしたことで苦しんでいたに違いない。たくさんのクリスチャンが牢獄で死んでいった。夢に見るほどのことだった。しかし、これを超えるだけの信仰が与えられていたということだ。またクリスチャンになる前とクリスチャンになった後が、明確に違っていたというふうに自分も共同体も確信を持てたから、罪意識を持ちながらも、クリスチャン共同体のなかで生きることができたのだと思う。ただすべての罪意識が消え去ったとは聖書は言っていない。私も罪があることで、傲慢にならずに生きていけるなあと思うことがある。それは弱さがあることで、傲慢にならずに生きていけるなあということの理解以上のものである。弱さに力点があったが、やはり罪深さに力点があるのが本当だろうなあと思う。そうしないと、すぐに行為に力がいくのは、理屈以上のものである。本当に人間は傲慢になる。傲慢の位置がないと立てないと思ってしまうのである。主よ憐れんでください。あなたのもとで生きることができますように。傲慢になることなどありませんように。

クリスチャンの居場所が社会的に認識されるために

クリスチャンの居場所が社会的に認識されるために、石破さんが首相になったら良いと思う。自民党内でも阿部体制への限界を感じる空気が広がるなかで、異なるキャラクターとしては石破さんだと思う。その場合、クリスチャンが石破さんを支えるというよりも、批判側につくことになるだろうが、でもクリスチャンというものはどうゆうものかという勉強は少しできる可能性がある。大平さんの時とはまた時代が変わっている。クリスチャン大平さんというのと、クリスチャン石破さんというのと、また違うだろう。再び、クリスチャンというものがそれほど社会的影響がないと思われるのだろうか。そう思われたとしても、一つの評価材料にはなる。彼が信仰を個人的信仰という領域においやらざるを得ないのが見えてわかる。基本的に私はクリスチャンが首相にならなくてもよいと思っている。そうでないほうがよいと思っている。日本ではめずらしくクリスチャン代議士がいること自体が不思議なことのように思っている。しかし、クリスチャン首相というのも、面白いと思う。教会が居場所を理解するために、クリスチャンがクリスチャンを自覚する勉強をそれぞれの教会、教派に合わせてしていくことになろう。

まだ見えない我々の過去、現在、未来

私は若き頃、井戸垣師の書物で日本人クリスチャンの癖を悟らされた。戦前の基督教歴史を戦後のMBがどう捉えるか、それが重要であることに気づかされた。それで教会の皆さんにこの方の著作をプレゼントした。しかし私の感触は、皆さん触れたくないというものだったと思う。触れるだけの余力が当時の武庫川の信徒の中にはなかったと思われる。戦前の日本基督教団、そしてホーリネス群の現実は、私たちとどう関係があるのかということだったと思う。

 この感覚は実はMB全体にもあったと思う。いや福音派のなかにあった。それは歴史に目覚めた牧師と信徒の間のギャップである。それはアメリカのMB牧師がメノナイトに目覚めたものの信徒はアメリカに生きているというのと同じである。歴史を分析する理性についていけない日本の教会。確かに歴史はややこしい。歴史の客観と主観、ああややこしい。何か牧師の真面目さが悲壮感になり、それがもしかすると対話できない状況を追いやる可能性もあり、そのことを危惧している。間違っても、悲壮感に満ちた運命共同体のようになってはならない。また誰と共感するか、で分裂するようなことがあってはならない。

別の王がいる(使徒の働き17:1-15)

 「別の王」と言うユダヤ人たちの言葉が、当時のユダヤ人にもギリシャ人にも響いた言葉なんだなあと思った。響いていたからこそ人々を先導することができたんだなあ。なぜなら政治的にも共同体的にも個人的にも別の王がいてもらっては困るのだ。日本でのキリシタン迫害も「別の王」への恐れだったのだろう。21世紀日本でも、「別の王」という言葉は、政治的にも霊的にも威力のある言葉であるように思う。もしかすると、今だにイエスさまのことを「別の王」と思われているんだろうなあ。位置付けできない、対応できない、どう考えたら良いかわからない、その意味ではないかと思う。私たちもそのような世界で、説明するのに苦慮している。イエスさまは「ユダヤの王」「世界の王」「救い主」「救世主」、日本人として、一番の逃げは何か。心のなかの王、だけに留めてしまうこと、これだと思う。日本のクリスチャンはイエスさまを「心のなかの王」にした上で、信仰を矮小化してしまった敬虔主義者、イエスさまを「心のなかの王」にしてした上で、自分の考えを主張する自由主義者社会主義者に偏る傾向があった。今日の箇所で、一番短い福音の言葉なんじゃないかと思える箇所がある。短くて完璧な福音の言葉がこれだなあ、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえられなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです。」これをどう日本で説明しきるか、である。

この方以外に救いはない(使徒4:1-12)

 次の日曜日、この箇所から説教することが決まっている。現代社会のなかで排他的に思える「この方以外に救いはない」のペテロの言葉であるが、果たして本当に排他的なのか、そのあたりに知恵が与えられたらと思う。恩師三谷幸子先生が、中田羽後氏が三谷種吉訳、神はひとり子の5番の「神を信ぜしもの人にあらず」をカットしたことについて、お父さまは排他的な意味でこのような歌詞を入れたのではないことを説明なさっていた。それほどの情熱を持つべきが福音であるということをこのような表現にしたのだということだった。今回のペテロの言葉もそのように思う。

 それから排他主義と思われている部分をもう少し、深く掘り下げたい。身近なところでは、結婚している二人のなかには入ってはいけない領域があるでしょ、ということ。二人の関係のなかにどうして入ってはならないの、それは排他主義でしょ、と言ったとしても、それは違うと言えると思う。そればかりか、「この方以外に救いはない」という言葉の意味が、もしかすると、「キリスト教という組織体以外に救いはない」になってしまっていないか、こちらのほうも注意を払うべきだと思う。私たちは残念なことに、キリストがキリスト教だというふうに当然のように思われている時代に生きている。西洋のキリスト教キリスト教だ。国教会のキリスト教キリスト教だというふうに考える環境のなかで生きているのだ。でも違う。「イエスさま以外に救いはない」「イエスさまとの個人的な人格関係以外に救いはない」ということなのであって、「過去のキリスト教国に所属しているものに救いはある」なんていうのは問題外なのです。


 何しろ、本日の箇所、ペテロが置かされたこの状況、ペテロの弁明の叫びにパッションを感じる。ここにはペテロの怒りがあるのだろう。聖なる怒りが・・。何しろすごいことを言っているなあ。まず「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエスキリスト」が、みなさんの前に立っているこの人を癒したのだと言ってのけている。この瞬間、私にもペテロの憤りが伝わってくるが、聞き手は意味を理解するなかで彼らなりの怒りが生じたに違いない。ただ、彼らは、ペテロがもし復讐心に燃えて自分たちに敵対してきているのなら、もっと別の復讐の仕方があるだろうと考えたのではないか。そうではなく、一人の癒された人がみんなの前に立っているだけである。実際はペテロは自分もキリストをうらぎったものである自覚があるので、みんなが罪人であることを主張しているように思う。ただペテロは、イエスさま経験をしながら、少しずつ理解していったのであろう。

あわれみ深い大祭司となるために(ヘブル2:10-3:1)

 あわれみ深い大祭司となるために、イエスさまはこのように歩まれたんだ。正直、イエスさまが・・・なるために、という言葉自体をなかなか受け止めきれない。イエスさまが受肉されて、この悪の世界のなかで学習されたということ自体が受け止めきれない。イエスさまが従順を学ばれたということ自体が受け取りにくい。イエスさまが私たちを救うために、試みを受けられたということ自体、どう考えたら良いのだろうか。やっぱり受肉の最初からのすべてのこと、ありえないことだったのだ。確かに、イエスさまご自身としては、そうせねばならなかったのであるが、そのようになさるイエスさまのことがありがたすぎて、今だに受け止めきれないままである。中田羽後の晩年近くに作った讃美歌、「イエスは神であるのに」を思い起こす。「イエスは神であるのに」は5番ぐらいまでだったが、10番でも、50番でも増やすことができる。ありえない、一つ一つのことを。これこそ神さまの奇跡だった。本日の最後にイエスのことを考えなさいと言われているが、クリスマスは、イエスさまのことを他の季節以上に、じっくり考えるべき時なのだと思う。周りが浮き足立つ時期だから余計に、だ。そう、ご降誕は受肉の旅の始まりであった。まだこれから、あわれみ深い大祭司の道を歩まねばならなかった。