パウロの罪意識は本当だったんだろうなあ

 私はルター派ではないが、パウロの罪意識に対して、あれは本当に本物だったと思う。そこからすべてが始まるというのも本当だと思う。聖潔が見えてこないとしても、罪意識を持っているがゆえに、生きることができたのだと思う。私は高度な罪意識とか、罪意識理解が深まったという言い方をするが、パウロは本当に自分のしたことで苦しんでいたに違いない。たくさんのクリスチャンが牢獄で死んでいった。夢に見るほどのことだった。しかし、これを超えるだけの信仰が与えられていたということだ。またクリスチャンになる前とクリスチャンになった後が、明確に違っていたというふうに自分も共同体も確信を持てたから、罪意識を持ちながらも、クリスチャン共同体のなかで生きることができたのだと思う。ただすべての罪意識が消え去ったとは聖書は言っていない。私も罪があることで、傲慢にならずに生きていけるなあと思うことがある。それは弱さがあることで、傲慢にならずに生きていけるなあということの理解以上のものである。弱さに力点があったが、やはり罪深さに力点があるのが本当だろうなあと思う。そうしないと、すぐに行為に力がいくのは、理屈以上のものである。本当に人間は傲慢になる。傲慢の位置がないと立てないと思ってしまうのである。主よ憐れんでください。あなたのもとで生きることができますように。傲慢になることなどありませんように。