新型コロナウイルス感染に神経質になっている中で(マルコ7章1〜23節)

 新型コロナウイルスのことで、手を洗うことが勧められているこの時期に、確かにひっかかりつつも響いてくる箇所です。弟子たちの中の「ある者」が手を洗わなかったことが、救い主イエスキリストを攻撃する攻撃材料になっています。しかしイエスさまはそれに対して「言い伝え」が神の言葉を無にしてしまう、と嘆かれています。「言い伝え」と神の言葉を区別できなくなっている宗教人の現状を批判しているのです。面白いのは、この討論を用いて、群衆に説教し、弟子たちにも説教するのですが、みんな心底、理解できていなかったのではないかと思ってしまうことです。教会でコロナ対策が話し合われますが、見えないものに対して敏感になっています。しかし見えないものに対して敏感になるのならば、もっと大切な霊的なものに対して敏感にならないといけないのではないでしょうか。議論をせよということではありません。やはりイエスさまからすれば、あなたがたの議論はそこか、という気持ちではなかったかと思います。あなたがたの攻撃はそこか、という気持ちではなかったかと思います。確かにイエスさまは必要あらば論点を変えるお方です。アーメン

船の体験(マルコの福音書33-41)

 最近、船に関心が向く。なぜなら新型コロナウイルスもクルーズ船で広がったニュースがあったから。以前、こんな日本という船という視点で説教したこともある。同船している主のご臨在を覚えることがどんなにすばらしいことか。大きな船の場合は船感がないかも、ジャンボジェットの場合は、飛行機感がないかも。小さくても大きくても船は船であり、イエスさまのご臨在を信じる信仰、これに尽きるのだ。創造主が被造の外のお方なのに被造の船の中におられた、ことに感謝!!  今回気づいたことがもう一つある。「ほかの舟も一緒に行った」とある。もう一つの舟にいた弟子たちの経験と、この舟にいた弟子たちの経験はちょっと違うんだろうなあ。二つの舟とも嵐経験をし、二つの舟とも凪経験をした。しかしこの舟ほどのドラマはなかったかもしれない。つまり「この方は誰であるか」の体験の学びを同船者ほどよくできただろうなと思わされた。つまり、被造世界の中で疲れて居眠りをする方に苛立つ対象こそが被造世界を創造されたお方であるということ。

「人と人を繋げるしもべ」(創世記24章28〜49節)

 正直、こんなしもべがいたらいいなあ、と思いました。また自分もこんなしもべにならないといけないなあと思いました。私たちの世界では見たことがありません。アブラハムよりもこのしもべが輝いています。限られた情報のなかでどうして、こんな成功があるのでしょうか。今はたくさんの情報があっても成功しないのです。知らなかった人を信じるという風景はなんと美しいことでしょうか。なぜなら現代社会では、知らなかったら信じたら危険なのです。彼はこんな短時間に信頼関係を得たのです。ラバンはしっかりもの、抜け目のないもののイメージがある方ですが、彼はラバンの気持ちをつかんだのです。凄いの一言です。やはりしもべの鏡のような方です。彼はアブラハムのしもべですが、神に「我と汝」の祈ることができた方です。彼は「人と人を繋げるしもべ」でした。主よ、どうぞ、私も、「人と人を繋げるしもべ」となれますように。

カプセルホテルに泊まって(ヨナ1章)

 アメ横のカプセルホテルに泊まった。受付の方はどこの国の方だったのか。サウナでうちわで扇いでくれようとした人はどこの国の方だったのか、夜中で誰かがベットから落ちて、外国語で会話していたのはどこの国の方だったのか。隣の回転寿司に行くと皿を数える声もどこの国の方だったのか。その隣のコンビニの店員もどこの国の方だったのか。私は聖書の世界を感じやすくなったように思った。この夜はなかなか眠れなかった。夜中じゅう、騒がしかったから、である。私はカプセルで一人、ヨナがタルシシュ行きの船の船底にいたことをずっと考えていた。こんな用いられ方もあるんだ。神はニネベへの憐れみを示すためにこんな用いられ方もあるんだと思った。日本の船底であなたは何をしているんだとの声が聞こえたように思えた。船に乗っている外国人たちはいい人たちばかりだ。船に乗っている外国人たちは最後の最後で「ヤハウェ」の名前で祈っている。

あなたの罪は赦された(マタイ9章1-8節)

 睡眠不足なら寝たら良い。体が疲労しているなら、疲労した部分を休ませば良い。あの人との関係で疲れていたら、あの人と和解したら良い。中風が癒されたいのなら中風を癒してもらえば良い。でも解決したらみんな帰っていって忘れ去って、それで終わりである。信仰で大切なのは、繋がりなのに。イエスさまは普通の病院ではない。病院は治ると行かなくても良い。信仰でつながらないといけない。イエスさまは、この時とばかり、信仰を見て「あなたの罪は赦された」と言われた。つまり中風になったがゆえに、苦しんできた罪意識の数々に通じられたのである。罪の赦しは繋がるためにある。悔い改めは繋がるためにある。

 私たちも人々の必要に答えたいとは思う。しかし私たちはそこに止まってはならない。いや必要は付け足しのようなものだという信仰理解が必要だ。重要なのは「あなたの罪は赦された」という宣言と信仰による確信である。

信仰告白を喜ばれる主イエスさま(マタイ16章13-23節)

教会の中高生たちは今、キャンプに行っている。行けなかった子たちは、来週、教会でお泊まり会だ。イエスさまの弟子たちはいつもキャンプをしているようなものだ。でももっと別世界のキャンプが必要だった。それは、大会衆がついて来ない、忙しくないキャンプだ。それがピリポカイザリアだった。そのような場所で、イエスさまは聞きたかった言葉が、ペテロの口から発話された告白の言葉だった。本日の、イエスさまが驚かれ、喜ばれたお姿がうれしい。イエスさまは摂理だから、悟って、わかってらっしゃった、とか、なんて聖書に書いていない。教理化されたものを先に教えられた21世紀日本に生きる自分が、さきさき読み込んでいきたい気持ちを押さえて、やはり、イエスさまは驚かれ、喜ばれたんだ。だからこそそれに対して、思わず「じゃあ、わたしも言おう」と言われたのが、「この岩の上に・・」という内容である。「じゃあ、わたしも言おう」と言ってくださるような、そんな応答を弟子たちがすることを主は期待されているんだなあ。今まで、「この岩の上に・・・」のカトリックの解釈、プロテスタントの解釈、福音主義の解釈、というふうに、そんなことばかり考えてきたが、今日に関しては「じゃあ、わたしも言おう!」というイエスさまの喜びに共感できるような自分になりたいと思った。

この言葉を聞いた時(ネヘミヤ1章)

本日の箇所を読んだ時、最初に思ったのは、祈りのなかに何度も「しもべ」が出てくることだった。自分の祈りはどうだろうか。自分は苦しみと痛みの中で「しもべ」を連発して祈ってみようと思った。祈り方としては、モーセも「しもべ」だった。アブラハムも「しもべ」だった。イスラエル民族も「しもべたち」だった。同じ「しもべ」だったんですねと喜ぼう。また私も自分のことを「しもべ」って祈っていいんですねという思いで祈ってみようと思った。私はネヘミヤの時代とは違い、イエスさまの御名で祈ることができるし、また神の子としての特権が与えられているので、「アバ父」と祈ることができる、でももう一つ「しもべ」として祈ってみよう。ネヘミヤの場合は祈った自分が、王の「しもべ」の献酌官であることを自覚した。しかし本当は神の「しもべ」だった。王からの信頼を得ていた唯一の高い地位にあるユダヤ人であることのゆえの神からの使命が与えられていたことを彼はより自覚しただろう。自分に与えてくれている使命は何だろう、と改めて考えさせられた。定年65歳まであと5年、主よ、どうしたらいいですか。3.11の今日。コンテキストに鈍感な自分、特に日本というコンテキストに鈍感な自分が恥ずかしい。「この言葉を聞いた時」ネヘミヤは「しもべ」として祈ったのだ。