カプセルホテルに泊まって(ヨナ1章)

 アメ横のカプセルホテルに泊まった。受付の方はどこの国の方だったのか。サウナでうちわで扇いでくれようとした人はどこの国の方だったのか、夜中で誰かがベットから落ちて、外国語で会話していたのはどこの国の方だったのか。隣の回転寿司に行くと皿を数える声もどこの国の方だったのか。その隣のコンビニの店員もどこの国の方だったのか。私は聖書の世界を感じやすくなったように思った。この夜はなかなか眠れなかった。夜中じゅう、騒がしかったから、である。私はカプセルで一人、ヨナがタルシシュ行きの船の船底にいたことをずっと考えていた。こんな用いられ方もあるんだ。神はニネベへの憐れみを示すためにこんな用いられ方もあるんだと思った。日本の船底であなたは何をしているんだとの声が聞こえたように思えた。船に乗っている外国人たちはいい人たちばかりだ。船に乗っている外国人たちは最後の最後で「ヤハウェ」の名前で祈っている。

あなたの罪は赦された(マタイ9章1-8節)

 睡眠不足なら寝たら良い。体が疲労しているなら、疲労した部分を休ませば良い。あの人との関係で疲れていたら、あの人と和解したら良い。中風が癒されたいのなら中風を癒してもらえば良い。でも解決したらみんな帰っていって忘れ去って、それで終わりである。信仰で大切なのは、繋がりなのに。イエスさまは普通の病院ではない。病院は治ると行かなくても良い。信仰でつながらないといけない。イエスさまは、この時とばかり、信仰を見て「あなたの罪は赦された」と言われた。つまり中風になったがゆえに、苦しんできた罪意識の数々に通じられたのである。罪の赦しは繋がるためにある。悔い改めは繋がるためにある。

 私たちも人々の必要に答えたいとは思う。しかし私たちはそこに止まってはならない。いや必要は付け足しのようなものだという信仰理解が必要だ。重要なのは「あなたの罪は赦された」という宣言と信仰による確信である。

信仰告白を喜ばれる主イエスさま(マタイ16章13-23節)

教会の中高生たちは今、キャンプに行っている。行けなかった子たちは、来週、教会でお泊まり会だ。イエスさまの弟子たちはいつもキャンプをしているようなものだ。でももっと別世界のキャンプが必要だった。それは、大会衆がついて来ない、忙しくないキャンプだ。それがピリポカイザリアだった。そのような場所で、イエスさまは聞きたかった言葉が、ペテロの口から発話された告白の言葉だった。本日の、イエスさまが驚かれ、喜ばれたお姿がうれしい。イエスさまは摂理だから、悟って、わかってらっしゃった、とか、なんて聖書に書いていない。教理化されたものを先に教えられた21世紀日本に生きる自分が、さきさき読み込んでいきたい気持ちを押さえて、やはり、イエスさまは驚かれ、喜ばれたんだ。だからこそそれに対して、思わず「じゃあ、わたしも言おう」と言われたのが、「この岩の上に・・」という内容である。「じゃあ、わたしも言おう」と言ってくださるような、そんな応答を弟子たちがすることを主は期待されているんだなあ。今まで、「この岩の上に・・・」のカトリックの解釈、プロテスタントの解釈、福音主義の解釈、というふうに、そんなことばかり考えてきたが、今日に関しては「じゃあ、わたしも言おう!」というイエスさまの喜びに共感できるような自分になりたいと思った。

この言葉を聞いた時(ネヘミヤ1章)

本日の箇所を読んだ時、最初に思ったのは、祈りのなかに何度も「しもべ」が出てくることだった。自分の祈りはどうだろうか。自分は苦しみと痛みの中で「しもべ」を連発して祈ってみようと思った。祈り方としては、モーセも「しもべ」だった。アブラハムも「しもべ」だった。イスラエル民族も「しもべたち」だった。同じ「しもべ」だったんですねと喜ぼう。また私も自分のことを「しもべ」って祈っていいんですねという思いで祈ってみようと思った。私はネヘミヤの時代とは違い、イエスさまの御名で祈ることができるし、また神の子としての特権が与えられているので、「アバ父」と祈ることができる、でももう一つ「しもべ」として祈ってみよう。ネヘミヤの場合は祈った自分が、王の「しもべ」の献酌官であることを自覚した。しかし本当は神の「しもべ」だった。王からの信頼を得ていた唯一の高い地位にあるユダヤ人であることのゆえの神からの使命が与えられていたことを彼はより自覚しただろう。自分に与えてくれている使命は何だろう、と改めて考えさせられた。定年65歳まであと5年、主よ、どうしたらいいですか。3.11の今日。コンテキストに鈍感な自分、特に日本というコンテキストに鈍感な自分が恥ずかしい。「この言葉を聞いた時」ネヘミヤは「しもべ」として祈ったのだ。

十字架の道(マタイ16:21~28)

今日は早天祈祷会でこの箇所をみんなで読んだ。一人の兄弟が「イエスさまは怖い上司じゃなかったんですね。」と驚いていた。というのは、イエスさまはペテロにいさめられるぐらいの距離感の方だったということに驚いたのだそうだ。私には彼の驚きが新鮮だった。感情をペテロからぶつけられたイエスさまだったのだ。それで感情をぶつけられたイエスさまは感情で返したのだ。「サタンよ下がれ」と。受肉されたイエスさまは最初の誘惑からこの時までずっと変わらずサタンからの誘惑を受け続けておられたんだということに気づいた。サタンは力づくでペテロを使って「十字架の道」の最終地点に近づこうとしているイエスさまに対して通せんぼをしたのだ。私など通せんぼされるとそっちのほうが御心だと思ってしまわないだろうか。通せんぼされてもつまづかない、通せんぼされたも、何とも思わない、そんな強さがほしい。でもそのためにはこれが御心の道だとの確信がまず具体的に与えられていますようにと祈るばかりだ。

傷ついた葦を折ることなく(マタイ12章14-21節)

 今週火曜日のデボーションの箇所でした。今日と明日の説教の箇所にしました。子供の頃から親の祈りの中で聞いてきた御言葉です。イエスさまはご自身を殺害する相談を知ったのです。知ったのでその場を立ち去ったのです。しかし群衆がついてきたので、求める彼ら全員を癒されました。理由は、9章36節に「見て」とあったように、見たので憐れまれたのです。私たちは見て憐れまれるという行為から学ぶべきでしょう。感情を抑えて理性で判断することを称賛する価値観は確かにありました。私の父がある神学者に「感情的になるのが問題ではないですか」と問うた時、その神学者は「感情が大切だと思うのです」と言われて父はびっくりしたということを、その神学者から聞いたことがあります。今も考えさせられていることです。今ポストモダンとか言われている時代。心に触れないならば真理はなかなか伝わっていきません。ここは理屈抜きでイエスさまは、「見て」憐れまれたのです。16節で「知らせないように」というは、イエスさまが「時」の調整をなさったということでしょう。十字架と復活の時は「その時」でなくてはならないからです。杉原千畝が最後の最後まで、ユダヤ人のために、電車が発車するまでビザの発行の手続きをし続けた、あの風景と重なってきます。「傷ついて葦を折ることなく」というデボーションテキストのタイトルですが、私は「くすぶる灯芯を消すこともない」をタイトルに選びました。現代人、阪神間に生きるものとして、葦よりも灯芯のほうが身近に感じますから。

わたしの心だ。きよくなれ(マタイ8章1〜13節)

 イエスさまは共感してくださるお方だ。ツァラアトの方が「心」という言葉を使用すると、同じ「心」という言葉をちゃんと使ってくださって、イエスさまは答えてくださった。自分もその人の言葉をちゃんと使用した共感者にならないといけないなあと思った。それからこの箇所はイエスさまが異邦人と遭遇した記事としては初めての箇所だ。イエスさまはユダヤ人のなかに信仰を見出す感動よりも、異邦人のなかに信仰を見出す感動を表明されている。領域を超え、想定を超えた感動を正直になさっている。今日も私のなかにそのような感動を与えてください。本物の信仰を見出す眼を与えてください。