十字架の道(マタイ16:21~28)

今日は早天祈祷会でこの箇所をみんなで読んだ。一人の兄弟が「イエスさまは怖い上司じゃなかったんですね。」と驚いていた。というのは、イエスさまはペテロにいさめられるぐらいの距離感の方だったということに驚いたのだそうだ。私には彼の驚きが新鮮だった。感情をペテロからぶつけられたイエスさまだったのだ。それで感情をぶつけられたイエスさまは感情で返したのだ。「サタンよ下がれ」と。受肉されたイエスさまは最初の誘惑からこの時までずっと変わらずサタンからの誘惑を受け続けておられたんだということに気づいた。サタンは力づくでペテロを使って「十字架の道」の最終地点に近づこうとしているイエスさまに対して通せんぼをしたのだ。私など通せんぼされるとそっちのほうが御心だと思ってしまわないだろうか。通せんぼされてもつまづかない、通せんぼされたも、何とも思わない、そんな強さがほしい。でもそのためにはこれが御心の道だとの確信がまず具体的に与えられていますようにと祈るばかりだ。

傷ついた葦を折ることなく(マタイ12章14-21節)

 今週火曜日のデボーションの箇所でした。今日と明日の説教の箇所にしました。子供の頃から親の祈りの中で聞いてきた御言葉です。イエスさまはご自身を殺害する相談を知ったのです。知ったのでその場を立ち去ったのです。しかし群衆がついてきたので、求める彼ら全員を癒されました。理由は、9章36節に「見て」とあったように、見たので憐れまれたのです。私たちは見て憐れまれるという行為から学ぶべきでしょう。感情を抑えて理性で判断することを称賛する価値観は確かにありました。私の父がある神学者に「感情的になるのが問題ではないですか」と問うた時、その神学者は「感情が大切だと思うのです」と言われて父はびっくりしたということを、その神学者から聞いたことがあります。今も考えさせられていることです。今ポストモダンとか言われている時代。心に触れないならば真理はなかなか伝わっていきません。ここは理屈抜きでイエスさまは、「見て」憐れまれたのです。16節で「知らせないように」というは、イエスさまが「時」の調整をなさったということでしょう。十字架と復活の時は「その時」でなくてはならないからです。杉原千畝が最後の最後まで、ユダヤ人のために、電車が発車するまでビザの発行の手続きをし続けた、あの風景と重なってきます。「傷ついて葦を折ることなく」というデボーションテキストのタイトルですが、私は「くすぶる灯芯を消すこともない」をタイトルに選びました。現代人、阪神間に生きるものとして、葦よりも灯芯のほうが身近に感じますから。

わたしの心だ。きよくなれ(マタイ8章1〜13節)

 イエスさまは共感してくださるお方だ。ツァラアトの方が「心」という言葉を使用すると、同じ「心」という言葉をちゃんと使ってくださって、イエスさまは答えてくださった。自分もその人の言葉をちゃんと使用した共感者にならないといけないなあと思った。それからこの箇所はイエスさまが異邦人と遭遇した記事としては初めての箇所だ。イエスさまはユダヤ人のなかに信仰を見出す感動よりも、異邦人のなかに信仰を見出す感動を表明されている。領域を超え、想定を超えた感動を正直になさっている。今日も私のなかにそのような感動を与えてください。本物の信仰を見出す眼を与えてください。

地の塩、世の光(マタイ5章13-20節)

 地の塩、世の光は、私に自信を与えてくれる。アイデンティティーを刺激してくれる。イエスさまが私は世の光と言われたが、私たちもそうだよと言ってくれているからである。また福音的信仰を頂いているが、社会的にも輝く自信を与えてくれる。つまりこの世界を腐らせないためにあなたは存在しているんだという、すばらしい励ましたのことばだ。そんなふうに聞こえてくる。しかし、思い上がってはならない。しかし遠慮してはならない。この微妙なところに留まらせてくださいとただただ祈るばかりだ。結局のところ、8福の教えの通りに歩もうとする私たちに対しての答えは輝かせてくれるということだ。用いてくれるということだ。8福の教えの価値観は、ちゃんと神の御手の中で守られているということだ。

幸いなるかな(マタイ5章1〜12節)

 最近、私がメッセージのなかでよく言うようになったのは、「イエスさまがそう言われているんだから」という言葉です。いろいろ説明を加えることをしたくなくなりました。「イエスさまがそう言われているんだから」ということが一番正しいことだと思います。つまりイエスさまへの信頼、イエスさまとの信頼関係がすべてのすべてなんですから。眼前のイエスさま、臨在のイエスさま、内住のイエスさま、がそう言われているんですから。あり得ない受肉をなされて、我々の模範者として幸い取り抜くイエスさま、がそう言われているんですから。

主にだけ仕えよ(マタイ3章13節〜4章11節)

 本日の箇所は二つに分けてほしかった。3章13節から17節が魅力的な箇所だし、4章1節から11節も魅力的な箇所だ。明日の説教、私は4章をナウエンの理解で語りたかったが、3章のほうを選んでしまった。タイトルは「今はそうさせて頂きたい」だ。イエスさまは生涯中そうやって歩まれた。受肉の主が洗礼を受けるなんておかしいじゃないか、と4章で登場する「誘惑するもの」は言うだろう。「あんたは神だろ、正体を証ししたらいいじゃないか、我慢せんでもいいじゃないか」という誘惑するものは言うだろうが、主は打ち勝たれたのだ。そのようなお方に対して、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われた。ハレルヤ!!

バプテスマのヨハネ登場(マタイ3章1-12節)

シンプルでその通りの人で有り抜いたバプテスマのヨハネだった。彼は罪を悔い改めた人たちに洗礼を授けたのであるが、その悔い改めた人たちに、ただ悔い改めるだけじゃだめだ、悔い改めの実を結べと怒り言葉で責めている。まるで水のバプテスマには限界があると言わんばかりだ。そして後のイエスさまが、聖霊バプテスマを与えてくれるというのである。やるべきことはする、言うべきことは言う、でも力を与えてくれるのは後に来るイエスさまだけだということだろう。2019年1月、私も言おう「やるべきことはする、言うべきことは言う、失敗もしよう、でも力を与えてくれるのはイエスさまだけだ」アーメン。