この言葉を聞いた時(ネヘミヤ1章)

本日の箇所を読んだ時、最初に思ったのは、祈りのなかに何度も「しもべ」が出てくることだった。自分の祈りはどうだろうか。自分は苦しみと痛みの中で「しもべ」を連発して祈ってみようと思った。祈り方としては、モーセも「しもべ」だった。アブラハムも「しもべ」だった。イスラエル民族も「しもべたち」だった。同じ「しもべ」だったんですねと喜ぼう。また私も自分のことを「しもべ」って祈っていいんですねという思いで祈ってみようと思った。私はネヘミヤの時代とは違い、イエスさまの御名で祈ることができるし、また神の子としての特権が与えられているので、「アバ父」と祈ることができる、でももう一つ「しもべ」として祈ってみよう。ネヘミヤの場合は祈った自分が、王の「しもべ」の献酌官であることを自覚した。しかし本当は神の「しもべ」だった。王からの信頼を得ていた唯一の高い地位にあるユダヤ人であることのゆえの神からの使命が与えられていたことを彼はより自覚しただろう。自分に与えてくれている使命は何だろう、と改めて考えさせられた。定年65歳まであと5年、主よ、どうしたらいいですか。3.11の今日。コンテキストに鈍感な自分、特に日本というコンテキストに鈍感な自分が恥ずかしい。「この言葉を聞いた時」ネヘミヤは「しもべ」として祈ったのだ。