まだ見えない我々の過去、現在、未来

私は若き頃、井戸垣師の書物で日本人クリスチャンの癖を悟らされた。戦前の基督教歴史を戦後のMBがどう捉えるか、それが重要であることに気づかされた。それで教会の皆さんにこの方の著作をプレゼントした。しかし私の感触は、皆さん触れたくないというものだったと思う。触れるだけの余力が当時の武庫川の信徒の中にはなかったと思われる。戦前の日本基督教団、そしてホーリネス群の現実は、私たちとどう関係があるのかということだったと思う。

 この感覚は実はMB全体にもあったと思う。いや福音派のなかにあった。それは歴史に目覚めた牧師と信徒の間のギャップである。それはアメリカのMB牧師がメノナイトに目覚めたものの信徒はアメリカに生きているというのと同じである。歴史を分析する理性についていけない日本の教会。確かに歴史はややこしい。歴史の客観と主観、ああややこしい。何か牧師の真面目さが悲壮感になり、それがもしかすると対話できない状況を追いやる可能性もあり、そのことを危惧している。間違っても、悲壮感に満ちた運命共同体のようになってはならない。また誰と共感するか、で分裂するようなことがあってはならない。