この方以外に救いはない(使徒4:1-12)

 次の日曜日、この箇所から説教することが決まっている。現代社会のなかで排他的に思える「この方以外に救いはない」のペテロの言葉であるが、果たして本当に排他的なのか、そのあたりに知恵が与えられたらと思う。恩師三谷幸子先生が、中田羽後氏が三谷種吉訳、神はひとり子の5番の「神を信ぜしもの人にあらず」をカットしたことについて、お父さまは排他的な意味でこのような歌詞を入れたのではないことを説明なさっていた。それほどの情熱を持つべきが福音であるということをこのような表現にしたのだということだった。今回のペテロの言葉もそのように思う。

 それから排他主義と思われている部分をもう少し、深く掘り下げたい。身近なところでは、結婚している二人のなかには入ってはいけない領域があるでしょ、ということ。二人の関係のなかにどうして入ってはならないの、それは排他主義でしょ、と言ったとしても、それは違うと言えると思う。そればかりか、「この方以外に救いはない」という言葉の意味が、もしかすると、「キリスト教という組織体以外に救いはない」になってしまっていないか、こちらのほうも注意を払うべきだと思う。私たちは残念なことに、キリストがキリスト教だというふうに当然のように思われている時代に生きている。西洋のキリスト教キリスト教だ。国教会のキリスト教キリスト教だというふうに考える環境のなかで生きているのだ。でも違う。「イエスさま以外に救いはない」「イエスさまとの個人的な人格関係以外に救いはない」ということなのであって、「過去のキリスト教国に所属しているものに救いはある」なんていうのは問題外なのです。


 何しろ、本日の箇所、ペテロが置かされたこの状況、ペテロの弁明の叫びにパッションを感じる。ここにはペテロの怒りがあるのだろう。聖なる怒りが・・。何しろすごいことを言っているなあ。まず「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエスキリスト」が、みなさんの前に立っているこの人を癒したのだと言ってのけている。この瞬間、私にもペテロの憤りが伝わってくるが、聞き手は意味を理解するなかで彼らなりの怒りが生じたに違いない。ただ、彼らは、ペテロがもし復讐心に燃えて自分たちに敵対してきているのなら、もっと別の復讐の仕方があるだろうと考えたのではないか。そうではなく、一人の癒された人がみんなの前に立っているだけである。実際はペテロは自分もキリストをうらぎったものである自覚があるので、みんなが罪人であることを主張しているように思う。ただペテロは、イエスさま経験をしながら、少しずつ理解していったのであろう。