あわれみ深い大祭司となるために(ヘブル2:10-3:1)

 あわれみ深い大祭司となるために、イエスさまはこのように歩まれたんだ。正直、イエスさまが・・・なるために、という言葉自体をなかなか受け止めきれない。イエスさまが受肉されて、この悪の世界のなかで学習されたということ自体が受け止めきれない。イエスさまが従順を学ばれたということ自体が受け取りにくい。イエスさまが私たちを救うために、試みを受けられたということ自体、どう考えたら良いのだろうか。やっぱり受肉の最初からのすべてのこと、ありえないことだったのだ。確かに、イエスさまご自身としては、そうせねばならなかったのであるが、そのようになさるイエスさまのことがありがたすぎて、今だに受け止めきれないままである。中田羽後の晩年近くに作った讃美歌、「イエスは神であるのに」を思い起こす。「イエスは神であるのに」は5番ぐらいまでだったが、10番でも、50番でも増やすことができる。ありえない、一つ一つのことを。これこそ神さまの奇跡だった。本日の最後にイエスのことを考えなさいと言われているが、クリスマスは、イエスさまのことを他の季節以上に、じっくり考えるべき時なのだと思う。周りが浮き足立つ時期だから余計に、だ。そう、ご降誕は受肉の旅の始まりであった。まだこれから、あわれみ深い大祭司の道を歩まねばならなかった。