至高のイエスキリスト(コロサイ1:15-23)

 ヨハネパウロもぶれがなく、同じことを語っているなあと改めてひしひしと感じます。クリスマスのキャンドルサービスの時に牧師として読む箇所はやはり、ヨハネ1章です。ヨハネ1章の箇所と同じことを詳しくコロサイ1章で語られているなあと改めて覚えることができます。今の時代、「誰が先でもいいじゃない」「どこから来てどこに行くかなんて深く掘り下げて考えたくない」「今行きていることだけで十分じゃない」「曖昧しておいたほうが無難じゃない」という言葉が出てきそうな時代です。しかし我々は先におられたイエスさまのことをこのように聞くことができることは何と幸いなことでしょう。私たちの近くにおられるイエスさまが、実は万物よりも先に存在されたお方だったのだということを私たちはクリスチャン生活のなかで、日々、リアリティーある形で学び続けていくのです。先に存在した至高のイエスキリストを覚えれば覚えるほど、今度は自分の近くにおられるイエスさまのことを覚えねばならないでしょう。祈りをすると近くにおられるイエスさま体験から、至高のイエスさまに向かっていくことができると思います。神学(祈りをしない神学)をすると、遠い至高のイエスさま理解にとどまってしまうので気をつけないといけないと思います。やはり、私たちはすべて祈りから始めます。「イエスキリストの御名によって」の祈りから始めます。「イエスキリストの御名によって」というこの祈りの言葉がどれほど大切か、ということなのです。