イエスさまの心を私たちのこころに(ピリピ2:5-11)

 イエスさまは降りられました。上られたのではありません。降りられたのです。私たち人間は上り癖がついてしまっているのじゃないだろうか。しかしイエスさまは降りられたのです。ここでは、降りられたイエスさまのような心構えでいなさいと言われています。正直、自分は下に降りるほどの高い位置にいるかのような錯覚をしていないだろうか。これも問題だと思う。まず、このことのチェックが必要だ。私は降りなくてもすでに下にいるものであり、降りるなんて傲慢なことを言ってはダメだ。実際に降りることができたのはイエスさまだけだ。ということは、まず、イエスさまが私のところまで降りて来てくださったことを喜ぶこと、まずこれしかない。恵みを覚えてること、これしかない。その上で、私のようなものが降りるなんて到底傲慢なことだと思いつつ、キリストからの心構えを持つことが必要がある。低いところに行くという発想ではなく、あの人のところに行く、ことなのだ。自分が高いところにいて助けてあげるのではなく、ただ、あの人のところに行く、ということだと思う。私たちは謙卑など大それたことはできない。できることはまず、謙卑のイエスさまが高くあげられたことを感謝し、イエスさまの御前にひざまづくこと、のみだ。今日もすばらしいコンサートがある。是非来てくださいとみなさんに声をかけ、きっとたくさんの人たちが来てくださるだろう。でも教会はいつも、集まれ、だけでは、謙卑のイエスさまから教えられる心構えとは違うところに行ってしまうように思う。私たちが勇気を持って、その人のところに行くことだ。行きたくないところに行くことだ。どきどきするところに行くことだ。和解の使者として訪れることだ。