神の家族とされるめぐみ(エペソ2:11-18)

やはり、クリスチャンはイスラエルから見て異邦人だった。ただ肉において異邦人だったという言い方だ。その意味では今も肉においては異邦人だ。でもパウロは肉においての話をしていないのは明白。ここで、エペソの人たちに対して、キリストから離れたというだけでなく、イスラエルからも除外され、とあり、クリスチャンになる以前は神に繋がるなんの接点もなかったということを言っている。パウロは自分の以前の状況を思い出してただただ恵みを覚えるように導く。繋がりのなかったものが繋がりあるものとなる、これこそ神の恵みだ。関係のなかったものが関係のあるものとなる、これこそ恵みだ。自分のことを思ってもそうだ。日本人は関係があることで安堵する民族だと思う。縁があるとよく言う。でももう一度確認しよう。関係がなかったこと自体が恵みなのだ。私も日本という関係のない国に育った。キリスト教と全く関係のない国に育った。たまたま戦後、敗戦国となったがゆえに、日本人の心は外に向いていた。そのような時期が父がキリスト教に触れたから、その子供として信仰を持ち、今私は関係あるものとなっている。父はキリスト教に憧れたのだろう。でもキリスト教アメリカを憎んでいた。だからやはり関係がなかった。しかしたまたま、彼が繋がったバーテル先生は、アメリカという国を少しは相対化できる方だった。中国を愛し、日本を愛し、漢字も立派にかけるメノナイト平和主義の宣教師だった。だから彼は導かれたのだ。彼はバプテスト連盟大阪教会に行くと、戦争肯定の考えだったのでつまづいた。賀川の講演も聞き感動したりして、いろいろなところに行くが、いつも戻ってきたのがバーテル先生のところだった。そしてたまたまそこに神学校にできたことで、一期生になっていく。これもただ恵みとしか言いようがない。関係のないものが関係のあるものとなったので、その子である私も関係あるものとして導かれた。しかし、信仰継承の段階で、父の伝えたものは私の側では律法主義的に受け止められ、恵みから遠く離れたものに変容されていった。しかしそのようななかでも神は関係者として導かれたのだ。これが恵みなのである。関係を繋ぐもの、それがキリストである。キリスの血潮である。あれがあったから、今繋がっている。パウロは、エペソに人たちに遠くにいたあなたがた、近くにいた私たちと言う。パウロはきっと私自身に、こんなに遠くにいたと思っているであろう。いや現に私自身、こんなに遠くにいたと思っているのである。このことを思う気持ちが本物であればあるほど、恵みを感ずるものとなるということである。