別の王がいる(使徒の働き17:1-15)

 「別の王」と言うユダヤ人たちの言葉が、当時のユダヤ人にもギリシャ人にも響いた言葉なんだなあと思った。響いていたからこそ人々を先導することができたんだなあ。なぜなら政治的にも共同体的にも個人的にも別の王がいてもらっては困るのだ。日本でのキリシタン迫害も「別の王」への恐れだったのだろう。21世紀日本でも、「別の王」という言葉は、政治的にも霊的にも威力のある言葉であるように思う。もしかすると、今だにイエスさまのことを「別の王」と思われているんだろうなあ。位置付けできない、対応できない、どう考えたら良いかわからない、その意味ではないかと思う。私たちもそのような世界で、説明するのに苦慮している。イエスさまは「ユダヤの王」「世界の王」「救い主」「救世主」、日本人として、一番の逃げは何か。心のなかの王、だけに留めてしまうこと、これだと思う。日本のクリスチャンはイエスさまを「心のなかの王」にした上で、信仰を矮小化してしまった敬虔主義者、イエスさまを「心のなかの王」にしてした上で、自分の考えを主張する自由主義者社会主義者に偏る傾向があった。今日の箇所で、一番短い福音の言葉なんじゃないかと思える箇所がある。短くて完璧な福音の言葉がこれだなあ、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえられなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです。」これをどう日本で説明しきるか、である。

この方以外に救いはない(使徒4:1-12)

 次の日曜日、この箇所から説教することが決まっている。現代社会のなかで排他的に思える「この方以外に救いはない」のペテロの言葉であるが、果たして本当に排他的なのか、そのあたりに知恵が与えられたらと思う。恩師三谷幸子先生が、中田羽後氏が三谷種吉訳、神はひとり子の5番の「神を信ぜしもの人にあらず」をカットしたことについて、お父さまは排他的な意味でこのような歌詞を入れたのではないことを説明なさっていた。それほどの情熱を持つべきが福音であるということをこのような表現にしたのだということだった。今回のペテロの言葉もそのように思う。

 それから排他主義と思われている部分をもう少し、深く掘り下げたい。身近なところでは、結婚している二人のなかには入ってはいけない領域があるでしょ、ということ。二人の関係のなかにどうして入ってはならないの、それは排他主義でしょ、と言ったとしても、それは違うと言えると思う。そればかりか、「この方以外に救いはない」という言葉の意味が、もしかすると、「キリスト教という組織体以外に救いはない」になってしまっていないか、こちらのほうも注意を払うべきだと思う。私たちは残念なことに、キリストがキリスト教だというふうに当然のように思われている時代に生きている。西洋のキリスト教キリスト教だ。国教会のキリスト教キリスト教だというふうに考える環境のなかで生きているのだ。でも違う。「イエスさま以外に救いはない」「イエスさまとの個人的な人格関係以外に救いはない」ということなのであって、「過去のキリスト教国に所属しているものに救いはある」なんていうのは問題外なのです。


 何しろ、本日の箇所、ペテロが置かされたこの状況、ペテロの弁明の叫びにパッションを感じる。ここにはペテロの怒りがあるのだろう。聖なる怒りが・・。何しろすごいことを言っているなあ。まず「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエスキリスト」が、みなさんの前に立っているこの人を癒したのだと言ってのけている。この瞬間、私にもペテロの憤りが伝わってくるが、聞き手は意味を理解するなかで彼らなりの怒りが生じたに違いない。ただ、彼らは、ペテロがもし復讐心に燃えて自分たちに敵対してきているのなら、もっと別の復讐の仕方があるだろうと考えたのではないか。そうではなく、一人の癒された人がみんなの前に立っているだけである。実際はペテロは自分もキリストをうらぎったものである自覚があるので、みんなが罪人であることを主張しているように思う。ただペテロは、イエスさま経験をしながら、少しずつ理解していったのであろう。

あわれみ深い大祭司となるために(ヘブル2:10-3:1)

 あわれみ深い大祭司となるために、イエスさまはこのように歩まれたんだ。正直、イエスさまが・・・なるために、という言葉自体をなかなか受け止めきれない。イエスさまが受肉されて、この悪の世界のなかで学習されたということ自体が受け止めきれない。イエスさまが従順を学ばれたということ自体が受け取りにくい。イエスさまが私たちを救うために、試みを受けられたということ自体、どう考えたら良いのだろうか。やっぱり受肉の最初からのすべてのこと、ありえないことだったのだ。確かに、イエスさまご自身としては、そうせねばならなかったのであるが、そのようになさるイエスさまのことがありがたすぎて、今だに受け止めきれないままである。中田羽後の晩年近くに作った讃美歌、「イエスは神であるのに」を思い起こす。「イエスは神であるのに」は5番ぐらいまでだったが、10番でも、50番でも増やすことができる。ありえない、一つ一つのことを。これこそ神さまの奇跡だった。本日の最後にイエスのことを考えなさいと言われているが、クリスマスは、イエスさまのことを他の季節以上に、じっくり考えるべき時なのだと思う。周りが浮き足立つ時期だから余計に、だ。そう、ご降誕は受肉の旅の始まりであった。まだこれから、あわれみ深い大祭司の道を歩まねばならなかった。

至高のイエスキリスト(コロサイ1:15-23)

 ヨハネパウロもぶれがなく、同じことを語っているなあと改めてひしひしと感じます。クリスマスのキャンドルサービスの時に牧師として読む箇所はやはり、ヨハネ1章です。ヨハネ1章の箇所と同じことを詳しくコロサイ1章で語られているなあと改めて覚えることができます。今の時代、「誰が先でもいいじゃない」「どこから来てどこに行くかなんて深く掘り下げて考えたくない」「今行きていることだけで十分じゃない」「曖昧しておいたほうが無難じゃない」という言葉が出てきそうな時代です。しかし我々は先におられたイエスさまのことをこのように聞くことができることは何と幸いなことでしょう。私たちの近くにおられるイエスさまが、実は万物よりも先に存在されたお方だったのだということを私たちはクリスチャン生活のなかで、日々、リアリティーある形で学び続けていくのです。先に存在した至高のイエスキリストを覚えれば覚えるほど、今度は自分の近くにおられるイエスさまのことを覚えねばならないでしょう。祈りをすると近くにおられるイエスさま体験から、至高のイエスさまに向かっていくことができると思います。神学(祈りをしない神学)をすると、遠い至高のイエスさま理解にとどまってしまうので気をつけないといけないと思います。やはり、私たちはすべて祈りから始めます。「イエスキリストの御名によって」の祈りから始めます。「イエスキリストの御名によって」というこの祈りの言葉がどれほど大切か、ということなのです。

イエスさまの心を私たちのこころに(ピリピ2:5-11)

 イエスさまは降りられました。上られたのではありません。降りられたのです。私たち人間は上り癖がついてしまっているのじゃないだろうか。しかしイエスさまは降りられたのです。ここでは、降りられたイエスさまのような心構えでいなさいと言われています。正直、自分は下に降りるほどの高い位置にいるかのような錯覚をしていないだろうか。これも問題だと思う。まず、このことのチェックが必要だ。私は降りなくてもすでに下にいるものであり、降りるなんて傲慢なことを言ってはダメだ。実際に降りることができたのはイエスさまだけだ。ということは、まず、イエスさまが私のところまで降りて来てくださったことを喜ぶこと、まずこれしかない。恵みを覚えてること、これしかない。その上で、私のようなものが降りるなんて到底傲慢なことだと思いつつ、キリストからの心構えを持つことが必要がある。低いところに行くという発想ではなく、あの人のところに行く、ことなのだ。自分が高いところにいて助けてあげるのではなく、ただ、あの人のところに行く、ということだと思う。私たちは謙卑など大それたことはできない。できることはまず、謙卑のイエスさまが高くあげられたことを感謝し、イエスさまの御前にひざまづくこと、のみだ。今日もすばらしいコンサートがある。是非来てくださいとみなさんに声をかけ、きっとたくさんの人たちが来てくださるだろう。でも教会はいつも、集まれ、だけでは、謙卑のイエスさまから教えられる心構えとは違うところに行ってしまうように思う。私たちが勇気を持って、その人のところに行くことだ。行きたくないところに行くことだ。どきどきするところに行くことだ。和解の使者として訪れることだ。


 

神の家族とされるめぐみ(エペソ2:11-18)

やはり、クリスチャンはイスラエルから見て異邦人だった。ただ肉において異邦人だったという言い方だ。その意味では今も肉においては異邦人だ。でもパウロは肉においての話をしていないのは明白。ここで、エペソの人たちに対して、キリストから離れたというだけでなく、イスラエルからも除外され、とあり、クリスチャンになる以前は神に繋がるなんの接点もなかったということを言っている。パウロは自分の以前の状況を思い出してただただ恵みを覚えるように導く。繋がりのなかったものが繋がりあるものとなる、これこそ神の恵みだ。関係のなかったものが関係のあるものとなる、これこそ恵みだ。自分のことを思ってもそうだ。日本人は関係があることで安堵する民族だと思う。縁があるとよく言う。でももう一度確認しよう。関係がなかったこと自体が恵みなのだ。私も日本という関係のない国に育った。キリスト教と全く関係のない国に育った。たまたま戦後、敗戦国となったがゆえに、日本人の心は外に向いていた。そのような時期が父がキリスト教に触れたから、その子供として信仰を持ち、今私は関係あるものとなっている。父はキリスト教に憧れたのだろう。でもキリスト教アメリカを憎んでいた。だからやはり関係がなかった。しかしたまたま、彼が繋がったバーテル先生は、アメリカという国を少しは相対化できる方だった。中国を愛し、日本を愛し、漢字も立派にかけるメノナイト平和主義の宣教師だった。だから彼は導かれたのだ。彼はバプテスト連盟大阪教会に行くと、戦争肯定の考えだったのでつまづいた。賀川の講演も聞き感動したりして、いろいろなところに行くが、いつも戻ってきたのがバーテル先生のところだった。そしてたまたまそこに神学校にできたことで、一期生になっていく。これもただ恵みとしか言いようがない。関係のないものが関係のあるものとなったので、その子である私も関係あるものとして導かれた。しかし、信仰継承の段階で、父の伝えたものは私の側では律法主義的に受け止められ、恵みから遠く離れたものに変容されていった。しかしそのようななかでも神は関係者として導かれたのだ。これが恵みなのである。関係を繋ぐもの、それがキリストである。キリスの血潮である。あれがあったから、今繋がっている。パウロは、エペソに人たちに遠くにいたあなたがた、近くにいた私たちと言う。パウロはきっと私自身に、こんなに遠くにいたと思っているであろう。いや現に私自身、こんなに遠くにいたと思っているのである。このことを思う気持ちが本物であればあるほど、恵みを感ずるものとなるということである。

私たちのために生まれるみどり子(イザヤ9:1-7)

 確かに、イザヤ7章のインマヌエルがどのようなお方であるかを指し示している。「しるし」が少しずつ明らかにされる。 イエスさまを知る私たちは、一つ一つ、名前を増えていくことに喜びを感じる。神さまが共におられるという「インマヌエル」に「不思議な助言者」という名前が加えられる。メサイヤで歌われる英語「ワンダフルカウンセラー」がなんと快く響いてくるか。「インマヌエル」だけで十分ではないか、それだけではなく、ワンダフルカンセラーという名前を知らされる。

 「インマヌエル」だけでは対話が見えて来ない。でも「ワンダフルカンセラー」では人格関係的対話が見えてくる。すばらしい言葉だ。そして「力ある神」、つまり非指示的に聞いてくださって、共感してくださるカウンセラーというだけではないことがわかる。実際に力があられるお方、当時の偶像の世界のなかで何も答えない偶像ではない、実際に力あるお方として登場されるというのである。次に「永遠の父」これもすごい言葉だ。肉親の父とは違う永遠の父だ。これは旧約のなかで、預言的な言葉だ。旧約聖書で神を父というふうに表現している内容はほとんどないように思う。イエスさまがアバ父と呼んだほどのリアリティーはないが、そのことを少しずつ垣間見させてもらえる言葉だ。そして「平和の君」である。シャロームのお方、つまり、世のなかの軍事力で平和を保つ程度の平和ではない、心のなかにしまいこんでしまうような平安でもない。ダイナミックな平和が表されている。神との関係で負い目がないか、人との関係で負目がないか、自分との関係で負目がないか、世界は負目なく平和であるか、そのことを表す平和である。天使たちは「地には平和」と歌った。それを実現してくださるお方が来られるのだ。名前を黙想することはすばらしいことだ。このクリスマス、主よ、もっともっとこの名前の意味を知り、あなたへの理解を深めることができるようにしてください。