地の塩、世の光(マタイ5章13-20節)

 地の塩、世の光は、私に自信を与えてくれる。アイデンティティーを刺激してくれる。イエスさまが私は世の光と言われたが、私たちもそうだよと言ってくれているからである。また福音的信仰を頂いているが、社会的にも輝く自信を与えてくれる。つまりこの世界を腐らせないためにあなたは存在しているんだという、すばらしい励ましたのことばだ。そんなふうに聞こえてくる。しかし、思い上がってはならない。しかし遠慮してはならない。この微妙なところに留まらせてくださいとただただ祈るばかりだ。結局のところ、8福の教えの通りに歩もうとする私たちに対しての答えは輝かせてくれるということだ。用いてくれるということだ。8福の教えの価値観は、ちゃんと神の御手の中で守られているということだ。

幸いなるかな(マタイ5章1〜12節)

 最近、私がメッセージのなかでよく言うようになったのは、「イエスさまがそう言われているんだから」という言葉です。いろいろ説明を加えることをしたくなくなりました。「イエスさまがそう言われているんだから」ということが一番正しいことだと思います。つまりイエスさまへの信頼、イエスさまとの信頼関係がすべてのすべてなんですから。眼前のイエスさま、臨在のイエスさま、内住のイエスさま、がそう言われているんですから。あり得ない受肉をなされて、我々の模範者として幸い取り抜くイエスさま、がそう言われているんですから。

主にだけ仕えよ(マタイ3章13節〜4章11節)

 本日の箇所は二つに分けてほしかった。3章13節から17節が魅力的な箇所だし、4章1節から11節も魅力的な箇所だ。明日の説教、私は4章をナウエンの理解で語りたかったが、3章のほうを選んでしまった。タイトルは「今はそうさせて頂きたい」だ。イエスさまは生涯中そうやって歩まれた。受肉の主が洗礼を受けるなんておかしいじゃないか、と4章で登場する「誘惑するもの」は言うだろう。「あんたは神だろ、正体を証ししたらいいじゃないか、我慢せんでもいいじゃないか」という誘惑するものは言うだろうが、主は打ち勝たれたのだ。そのようなお方に対して、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われた。ハレルヤ!!

バプテスマのヨハネ登場(マタイ3章1-12節)

シンプルでその通りの人で有り抜いたバプテスマのヨハネだった。彼は罪を悔い改めた人たちに洗礼を授けたのであるが、その悔い改めた人たちに、ただ悔い改めるだけじゃだめだ、悔い改めの実を結べと怒り言葉で責めている。まるで水のバプテスマには限界があると言わんばかりだ。そして後のイエスさまが、聖霊バプテスマを与えてくれるというのである。やるべきことはする、言うべきことは言う、でも力を与えてくれるのは後に来るイエスさまだけだということだろう。2019年1月、私も言おう「やるべきことはする、言うべきことは言う、失敗もしよう、でも力を与えてくれるのはイエスさまだけだ」アーメン。

モアブの位置(エレミヤ48章26-36節)

モアブの位置に注目しなければならないなあ。もしかすると私たちもすぐにモアブの位置に立つことがあるのではないかなあ。ちょっと離れたところ(死海を挟んで反対側)で、高ぶる自分がいるのではないかなあ。世界情勢を見ながら、島国日本も良く似た面があるかもしれないなあ。高ぶって、主の民が裁きを受けている状況を冷ややかに見ながら笑い者にしていないか、教えられる。結局、その高ぶりを見られる主が「あんたがたも笑い者になる」という預言をエレミヤを通してされているのだ。確か、モアブは出エジプトの民を自分の土地に入れなかった。モアブは出エジプトの民を呪うように指示したなあ。

この箇所、さばきしか書かれていない(エレミヤ25章30-38節)

今日の箇所を読みながら、「さばきたまえ」の詩篇の言葉が頭をよぎる。人は正しいさばきを欲しているものであったはずだ。ただ人によるさばきに対して、人は失望してしまって、さばき自体に対する不信感が私たちにある。私たちが生きる日本の地では、このような絶対的真理によるさばきを信じたくない気持ちが蔓延しているように思うし、神を信じていないのだからそれはわかる。私も説教のなかで「さばきたまえ」という言葉が誤解されないように配慮している自分がいる。しかし、私たち、神を信じているものは神の正しいさばきを信じているのである。一方でさばきの奥義を恐れつつまた期待もしているのである。今日の箇所を読みながら、イエスさまのたとえ話を思い起こしている。不正の裁判官のたとえ話である。「正しい裁判をしてください」とのひとりの女性の叫びを自分の叫びとしていきたい。そしてさばきの奥義を知っていくことができるように。

日が延びること自体が祝福だという理解を持とう!(第二列王記20章)

ヒゼキア王が出てきたことで、ユダ王国の滅亡は確かに延びた。滅亡は決定していたにもかかわらず延びたのである。ユダヤ王国滅亡に向けて加速していた筈なのに、ヒゼキアによって減速したのだ。減速は意味がないのか、どうせ滅びるのだから、減速に何の意味があろうか、と考えてはならない。減速であっても、それは意味があることなのだ。感謝すべきことなのだ。時を伸ばすことは意味があることなのだと考えてみてはどうだろうか。私たちが今、日本でクリスチャンであるということ自体、時を伸ばすために意味があることだと考えてみてはどうだろうか。ヒゼキア治世によって、ユダヤの滅亡は遅れることになる。もっとすごいのは、ヒゼキアの寿命が15年伸ばされたことによって、ユダヤ滅亡は延びたと考えも良いのではないか。神は寿命を決定していたにもかかわらず、その寿命を15年伸ばされた。その原因は、ヒゼキアの祈りによってである。神の決定性に私たちは厳粛な思いになるべきであるが、神との対話、祈りの重要性をここで汲み取る必要もある。15年延びたことは国家にとって祝福だったと見るべきだろう。私たちは伝道者の書の「時がある」ということに心向けるべきである。我々は神の時を知らない。神の時にに納得する時は、天国でイエスさまを通して意味を教えてもらう時だろう。その時までは、時のすべてを理解することができない。21世紀日本に生きる私たちも、無知な私たちではあるが、主よ、延ばしてくださいと祈ってもよい。もし滅亡とか暗いことを考えいるなら、もっと延ばしてくださいと祈ろう。祝福について考えているならば、早く来てくださいとも言おう。私は平和の時期を主が延ばしてくださっていることを感謝すべきだと思う。今の瞬間を恵みだと受け止めることができなくなったとしたら、もしかすると主は取り去れるかもしれない。もし自分の最後が近づいた時、まだ仕事があるので延ばしてくださいと真剣に祈ったら良い。祈りに対する答えは道半ばで召される形で表されるか、もう少しやるべきことをしてから召されるか、どちらかだ。ただこの地上で完成に至ることはないのは確かだ。滅亡に向けて、完璧な召しなど、王にはなかった。