インマヌエルの預言(イザヤ7:10-17)

 こんなところに「インマヌエル」がありました。改めて「こんなところに」というふうに思いました。何かこの節だけが輝いてみえます。文脈を読もうとするのですが、文脈を超えてしまうような輝きがあります。アハズにとって、「インマヌエル」は全くわからない概念でしょう。1節から読んでいくとそのことがよくわかります。また主が「しるしを求めよ」と言ったことに対して、アハズは「私は求めません」と言ったことからもよくわかります。でもよく考えみると、21世紀、今の政治家のトップは一人残らずそうでしょう。誰もインマヌエルを求めていません。神以外の力でなんとか世界をまとめていこうと努力しているのがよくわかりますし、人々もそのことを期待しているか、あきらめているか、ということではないでしょうか。今日、私が自分だけを信頼しているとしたら、それをやめることができますように。わかっているはずなのに、心配したり、怒ったり、焦ったり。そんな時、我々にはインマヌエルの方がおられると実感し、平安が戻ってきますように。インマヌエルの方がおられると実感し、怒りが消え去りますように。インマヌエルの方がおられると実感し、焦りが消え去りますように。それにしても、ユダは北王国のあとに滅ぼされるのですが、それだけ信仰的だったからあとになったのでしょうか。いいやあとで滅ぼされたのですが、彼らは、北の滅びを見て恐れ、そして自分の滅びを見て、二度の滅びを見ることになってしまったのです。一度目の滅びから学ぶことなく、です。彼らは、アッシリアの怖さを怯えましたが、バビロンの怖さに怯え、エジプトの怖さにも怯えなければならなかったのです。ああ、21世紀日本の状況になんと似ていることでしょうか。それから、インマヌエルの男の子についての解釈の広がりに圧倒されます。しっかりと新約聖書がこの「インマヌエル」を受け止めたのです。ハレルヤ!!