主は願いを聞かれた(Ⅰ列17:8-24)

 主はエリヤに注目される。エリヤが中心だ。エリヤを逃し、エリヤにごはんを与える。全部エリヤだ。ここを読んでいたら、この親子じゃなくて、エリヤを中心に動いているように思ってしまう。でも神と対話するエリヤを中心に読んでいくしかない。この親子だって、神と対話してきたが、細かいところまではわからない。エリヤのほうはまだよくわかるから、エリヤが中心に描かれているということだろう。そういえば、ダビデも自分のことを特別扱いされていると言っている。もしかすると私たちはこのことをもっともっともっともっと信じ続けなければならないのではないか。何も自分が特別扱いされていることが自己中心的だというのではなく、そんな余裕を持って客観的に物事を考えること自体難しいなかで、まずは自分と神との対話がある。それでいいのだ。一昨日まで牧師研修会で久しぶりに宮村先生の語り口に触れた。うれしかった。先生の口から何度も「対話」という言葉が飛び出す。また「呼応関係」という言葉も飛び出す。私との対話があるという現実がすべてのすべてである。でもあの人も神との対話がある。この人も神との対話があると信じなければならない。そのようにして生きていくのだ。この親子は振り回された。エリヤに振り回された。でも神との対話のなかで信仰を深めることができたのだ。私によって振り回されている人たちに感謝しよう。私は突発性難聴、ときにはめまいが起こり、迷惑をかけている。私ができない分、皆さんがやってくれている。でも私は、私と神との対話があることを信じつつ、周りの人たちにも対話があるのだから、そのことも信じなければならない。次の日曜日は「つぼの油は尽きない」と題して説教する。主よ、憐れんでください。内耳が死滅してしまうと音が聞こえなくなります。でも復活を信じます。主よ、憐れんでください。耳の偉大さを私に教えてください。あなたが何を私に教えようとされているのでしょうか、それも教えてください。主イエスよ。