続くとりなしの祈り(Ⅰ列8:44-53)

 今日のソロモンの祈りを読んで、やはり、神殿を失った後、バビロンに連れて行かれたダニエルのことを思い起こす。生き延びていたダニエルは外国の地でソロモンがとりなした祈りを実行した。ソロモンのとりなしの祈りの効力が永遠に続いているかのような祈りをした。でもすでにソロモン神殿は崩壊したではないか。神殿あってのとりなしの祈りではなかったのか。もう大祭司もいないじゃないか。至聖所もないではないか。だったらこのソロモンの祈りの効力はないのではないかと思ってしまうが、外国の地でダニエルは、ソロモンのとりなしの祈りが今も続いているかのように祈ったのである。神殿なき時代に、神殿なき場所で、神殿があった方向に向かってダニエルは祈った。ソロモンの祈りは神殿崩壊とともに消えてしまったのだろうか。神殿が崩壊すれば意味がないのであろうか。一度ささげられた、あのとりなしの祈りは、どうなっていくのだろうか。少なからず、ダニエルにとって、あのとりなしの祈りはダニエルの時代まで続いていた。もしかすると、ソロモンのとりなしは、神殿崩壊後の、外国において、以前よりもダニエルに至って生き生きと働いたとりなしの祈りだったのかもしれない。よく考えれば、私たちの状況も同じではないか。21世紀、ポストモダンなどと言われている時代、神殿なき時代、神殿なき場所、しかし神殿があった方向に向かって祈る、状況と非常に似ているような気がする。モーセのとりなし、ソロモンのとりなしは、イエスさまのとりなしに引き継がれていき、今やすべてのすべてがイエスさまのとりなしによって生きる時代になっている。であるから余計にそう思う。イエスさまのとりなしは、時間空間を超えて、今の私のためのとりなしの祈りだ。ハレルヤ!!