奉献式でのとりなしの祈り(Ⅰ列2:1-12)

 ソロモンは祈りをした。すごい祈りだ。よくもまあこんな長い祈り、よくもまあこんな具体的な祈り。よくもまあこんな配慮深いとりなしの祈りを生き生きとできたものだ。私は牧師をしているが、私にとっても模範的な祈りだ。奉献式だからよく準備されたのがよくわかる祈りだ。本当に知恵に満ちている。落ち度がない、漏れがない、そんな祈りのような感じがする。ソロモンは神に知恵を願って、神が喜んでくださったが、そのソロモンの知恵は祈りのなかに反映したことがよくわかるような祈りだ。しかし、自分はどうだろうか、自分は神から頂いた知恵を祈りのなかに用いているのだろうか。むしろ、私の祈りは繰り返しばかりの祈りになっているような感じがしている。ダビデ詩篇を読むと神学的な祈りというよりは人格関係的な祈りという印象が強い。でもソロモンのこの祈りは準備された知恵に満ちた祈りだ。政治的指導者の祈りはこうあらねばならないと思わせられる祈りだ。外国人に対する配慮の祈り、また神殿に主が住まれているのでなく、天に住まれていることを人々にわからせる適切な祈りなど、押さえるところはしっかりと押さえている。でも彼ほどの知恵の人は後に生まれて来ない。ということはあとはこの王国は彼ほどの知恵のないものが治めていくことになる。つまりこの国は奉献式の祈りが最高潮で、あとは下降していくことになっていく。彼の王としての働きは、クライマックスから始まったみたいなものだ。ですから、こうゆう内容を読んでいると自分たちがそうではないので、うれしくなる。彼の王国はクライマックスからスタートしたのであとは落ちるだけ。でも私たち日本の教会はまだクライマックスを経験していないのだから、希望を温めていこうという気持ちになる。そうだ。日本の教会がヨッローパや、アメリカの教会や、韓国の教会のようでないことを感謝しよう。またヨーロッパやアメリカや韓国から知恵に満ちた良い祈りを聞いたとき、うらやましがらずに、でも将来、そんなときが日本の教会にくることを期待してみてはどうだろうか。希望に関しては誰にも負けてはならない。