王位を継承するソロモン(Ⅰ列1:38-53)

今日は休日、いい天気。今までにないゆとりを頂いている。今日の箇所、どのように読んだら良いのだろう。私は牧師、ダビデは王。私は日本人、ダビデユダヤ人。なかなか接点が見出せない。私は暴力で秩序が保たれていること自体に違和感を感じてしまうメノナイトでもある。全然接点がないじゃないかといつものように叫んだ上で、でもダビデも自分も神を信じているという接点がある、これだけは確かだと納得しつつ、彼が明らかにしている詩篇に自分が苦しい時助けてもらっている。でも未だに釈然としないものがある。それがダビデの家族をどう捉えるかだ。こんなのは家族ではないと言い放ちたい。王になったら家族は家族でなくなるのではないか。もしかしたら、王になった非人格関係的になるのではないか。彼らは権威というものの犠牲者になるのか、とも考えてしまう。彼が羊飼いであったら、こんな悲しい人生を歩むことはなかった。ということは権威を持つことは犠牲者になることかと本気で思ってしまうのである。だれかが権威として犠牲者にならないといけないのかと思うほうが納得がいく。そしてそのような犠牲者が与えられないと世俗の秩序は保たれないのではないかとも思ってしまう。このような視点は間違っているのだろうか。そういえば、成功者の家族が破綻していくという事例は沢山ある。尊敬された人物が自分の家庭の現実を隠そうとし、ついには偽善性が蔓延るというようなことを、聖書はパリサイ人で表現しているではないか。だから私はイエスさまとつながっていることで安堵を頂くが、ダビデにつながったとしても安堵を感じることはないだろう。ダビデとは友達になれない。理由は彼が王だからだ。失敗したら殺されそう。でも彼の極限の苦しみの詩篇の言葉でこれからも自分は救われていくのだろうなあ。あっそうか、彼は自分のことをここまで明らかにしたことがすばらしいのだ。赤裸々に自分を聖書で表現できたこと自体がすばらしいのだ。ソロモンよ、おまえもそんな犠牲者になろうとしているのか。