傷ついた葦を折ることなく(マタイ12章14-21節)

 今週火曜日のデボーションの箇所でした。今日と明日の説教の箇所にしました。子供の頃から親の祈りの中で聞いてきた御言葉です。イエスさまはご自身を殺害する相談を知ったのです。知ったのでその場を立ち去ったのです。しかし群衆がついてきたので、求める彼ら全員を癒されました。理由は、9章36節に「見て」とあったように、見たので憐れまれたのです。私たちは見て憐れまれるという行為から学ぶべきでしょう。感情を抑えて理性で判断することを称賛する価値観は確かにありました。私の父がある神学者に「感情的になるのが問題ではないですか」と問うた時、その神学者は「感情が大切だと思うのです」と言われて父はびっくりしたということを、その神学者から聞いたことがあります。今も考えさせられていることです。今ポストモダンとか言われている時代。心に触れないならば真理はなかなか伝わっていきません。ここは理屈抜きでイエスさまは、「見て」憐れまれたのです。16節で「知らせないように」というは、イエスさまが「時」の調整をなさったということでしょう。十字架と復活の時は「その時」でなくてはならないからです。杉原千畝が最後の最後まで、ユダヤ人のために、電車が発車するまでビザの発行の手続きをし続けた、あの風景と重なってきます。「傷ついて葦を折ることなく」というデボーションテキストのタイトルですが、私は「くすぶる灯芯を消すこともない」をタイトルに選びました。現代人、阪神間に生きるものとして、葦よりも灯芯のほうが身近に感じますから。