地の塩、世の光(マタイ5章13-20節)
地の塩、世の光は、私に自信を与えてくれる。アイデンティティーを刺激してくれる。イエスさまが私は世の光と言われたが、私たちもそうだよと言ってくれているからである。また福音的信仰を頂いているが、社会的にも輝く自信を与えてくれる。つまりこの世界を腐らせないためにあなたは存在しているんだという、すばらしい励ましたのことばだ。そんなふうに聞こえてくる。しかし、思い上がってはならない。しかし遠慮してはならない。この微妙なところに留まらせてくださいとただただ祈るばかりだ。結局のところ、8福の教えの通りに歩もうとする私たちに対しての答えは輝かせてくれるということだ。用いてくれるということだ。8福の教えの価値観は、ちゃんと神の御手の中で守られているということだ。
この箇所、さばきしか書かれていない(エレミヤ25章30-38節)
今日の箇所を読みながら、「さばきたまえ」の詩篇の言葉が頭をよぎる。人は正しいさばきを欲しているものであったはずだ。ただ人によるさばきに対して、人は失望してしまって、さばき自体に対する不信感が私たちにある。私たちが生きる日本の地では、このような絶対的真理によるさばきを信じたくない気持ちが蔓延しているように思うし、神を信じていないのだからそれはわかる。私も説教のなかで「さばきたまえ」という言葉が誤解されないように配慮している自分がいる。しかし、私たち、神を信じているものは神の正しいさばきを信じているのである。一方でさばきの奥義を恐れつつまた期待もしているのである。今日の箇所を読みながら、イエスさまのたとえ話を思い起こしている。不正の裁判官のたとえ話である。「正しい裁判をしてください」とのひとりの女性の叫びを自分の叫びとしていきたい。そしてさばきの奥義を知っていくことができるように。